画集『津田梅子』〜梅子は柿が好き〜

2022年〜 自主制作&仕事


肖像_津田梅子(1864-1929)

数年前に大庭みな子の『津田梅子』を読みました。お札の肖像になるほどの偉人ですが、梅子が書いた手紙を軸にしたその本からは、聡明で行動力がある人物であったのはもちろんのこと、悩みや葛藤があり、情に厚く魅力的な女性だったことがわかります。

少しずつですが私なりに共感したエピソードなど、梅子にまつわる絵を描いていこうと思います。

 

梅子は1864(元治元)年12月31日生まれ。日本初の女子留学生として6歳でアメリカへ。11年滞在し、17歳で帰国。日本の女子教育に身を捧げ、1929(昭和4年)8月16日、64歳で亡くなりました。

 

生まれた時の名は「うめ」。37歳の時に「梅子」と改めます。ここでは呼び方を「梅子」で統一します。


津田梅子資料室見学


梅子はたくさん手紙を書いた

 1871(明治4)年、明治政府、北海道開拓使がアメリカに送った5人の女子留学生の一人でした。当時6歳だったこともあって梅子は月日とともに日本語が話せなくなります。 

 元々筆まめだったのでしょうが、帰国後は日本語が思うように使えないもどかしさもあって、英語で日々の率直な思いを育ての親に伝えたかったのかもしれません。


厄介な日本の習慣____1882年11月23日の手紙から

脱ぎ履きが大変ということで、ブーツにしてみました。上の絵ではレースアップを描きましたが、文章に「ボタン」とあるので、おそらく左のようなブーツかなと思うのです。いずれにしても、出入りのたびに「もーっ!」となりそうですね。

 

 


梅子は柿が好き___1882年11月27日の手紙から

食べ物の話題は楽しいものです。著名人の好物を知るのも興味深いです。

梅子の好物の一つは柿のようです。多種多様な果物や菓子が存在する現代に生きる私にとっても柿の食感、優しい甘さは唯一無二。好物が共通しているとこのような偉人に対しても(勝手に)親しみがぐーんと湧くものなんだなと思いました。

右の女性は姉の琴子さんをイメージして描きました。日本で英語を学び、梅子の帰国後は日本語が使えなくなった梅子のために通訳をするなどして梅子を支えました。


豊かな黒髪



新紙幣の顔となる

 

新紙幣の顔となる3人。

 

生年と没年をまとめると、

渋沢栄一は1840年〜1931年で、元号だと天保11年〜昭和6年。亡くなったのは91歳と長生きでした。

 

北里柴三郎は1853年〜1931年。嘉永5年昭和6年。渋沢より13歳年下ですが、同じ年に78歳で亡くなっています

 

津田梅子は1864年〜1929年。元治元年昭和4年。64歳で生涯を終えました。

 

梅子は渋沢より24歳年下、北里より11歳年下です。

計算、合ってるかしら。


父、津田仙

父、津田仙と梅子。

 

 津田仙

 1837(天保8)〜 1908(明治41)年。佐倉藩出身。農学者、教育者。若きころより英語を学び、幕府の通訳となる。明治以後も先見の明と持ち前の行動力で、日本の発展のために尽くした先駆者。

 津田梅子の父で、まだ幼い梅子に留学を勧めました。私がすごいなと思ったのは、海外滞在で農業の重要性に触れたり、外国人客の多い築地ホテル館勤務の経験から自ら東京で農場を持ち、西洋野菜などを育てるところ。それだけにとどまらず農産物の販売・輸入、農産についての書籍出版などを行う「学農社」を立ち上げ、農学校を設立するなど、農業改革と後進の育成に取り組んだところです。

 また梅子と同様にキリスト教を信仰し、同志社や青山学院など明治初期のキリスト教主義の学校設立にも多く携わります。さらに足尾銅山鉱毒事件では農民救済運動に奔走。人のために動く、気持ちが熱い人物だなと思いました。

父、津田仙は子どものころより牛乳を飲み、しっかり野菜も食べ、大きな体つきでした。

欧米人と比べ日本人の体が小さいことも国力が弱い原因と捉え、国民の体を大きくすること、すなわち農業や畜産業を重要視しました。


母、初


『梅、母に読み書きを習う』

 母、初子と梅子。天保13(1842)年生まれ。幕臣、津田大太郎の次女。仙は津田家の婿養子で、仙との間に12人の子を生み育てつつ、夫の活動を支えました。

 初は書に長じていて、子どもたちに読み書きを教えました。梅子が留学した時に初子がホストファミリーに送った和紙の手紙は美しく、現地の新聞に記事として掲載されるほどでした。

 


トーマス・ハント・モーガン博士


梅子は二度目の留学でアメリカのブリンマー大学に入学し、生物学を専攻しました。

そこで、指導教員をしていた若きモーガン氏との共同研究でカエルの卵の発生について論文を執筆。のちにその論文はイギリスの学術誌に掲載されました。

梅子は研究者としても優秀で、モーガンに研究を続けるよう進めたといわれていますが、梅子は日本で女子の学校をつくると言う初志を貫き帰国します。

のちにモーガンは、ショジョウバエの遺伝学研究の創始者となり、1933年にノーベル生理学・医学賞を受賞しました。

 

この絵はウィキペディアの模写です。その写真を見ると、梅子より年上なのかなと思ってしまいますが、梅子の方が2つほど年上です。

梅子が生物学を専攻したのは、幼い頃、父の農場で自然と触れ合っていたこともあるのかもしれません。


妹、よな子

 梅子の妹、安孫子余奈(よな)子。

 1880(明治13)年〜1944(昭和17)年

 仙と初の五女で、梅子より15歳くらい年下。華族女学校を卒業後、女子英学塾でも学び、梅子の海外視察に同行するなどして梅子を支えます。

 1909年、『日米新聞』社主の安孫子久太郎と結婚し、サンフランシスコに移住。関東大震災直後にはアメリカ東部各地で募金活動を行うなどして女子英学塾救済活動にあたります。

 夫が亡くなってからは同新聞の発行を受け継ぎます。太平洋戦争中は強制収容所に入りまましたが、病気のためフィラデルフィアの病院に移され、フィラデルフィアで死去しました。

 

 この絵は帽子のあみあみ&玉飾り、ブラウスのたくさんボタンに惹かれて描き始めましたが、「戦争がなければもっと長生きできたのかな」と考えます。



児童書の梅子

 児童書『心をそだてる はじめての伝記101人』(講談社)の仕事で梅子を描きました。編集さんの導きのもと、子どもが見た時にワクワクしてページをめくってくれたらいいなと

思いながら、描きました。

 

 左、最初の絵は梅子が6歳でアメリカへと旅立つ船出。鮮やかな赤い着物がポイントです。

 

 

  

 

 寄宿先のランマン邸にて。11年間もの間、ランマン夫妻はわが子のように梅子を育て、梅子も国や親、周りの人たちの期待に応えようとひたむきに学びます。

 

帰国して間もない梅子、17歳。日本語がうまく話せず、車夫とのやりとりにもひと苦労。

24歳で2度目のアメリカ留学。ブリンマー大学で学びます。専攻したのは生物学。そして教育について学び、日本で女性のための学校を作るという思いを強固にします。


梅子 少女時代の装い

 

子供時代、留学時の梅子▶︎

 

 写真を見て、「装いがかわいい!」と思って描きました。本人の写真を参考にしたものもあれば、時代が近いと思われる映画『若草物語』を参考にして描いたものもあります。

 当時のアメリカの服装事情はとんとわかりませんが、リボンやフリル使いが愛らしく上質な服を着ていたのではないかと思われます。

 


参考資料

・『津田梅子』大庭みな子

・津田梅子資料室 デジタルアーカイブス

テレビドラマ『津田梅子 お札になった留学生』